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オッさん 父さん's List: オッさんのリスト

    • (書いてある言葉)科学的に証明されていない
        (本当の意味)インチキっぽいものを信じたい
      (書いてある言葉)科学が全てではない
        (本当の意味)私は科学をよく知らないしこの先勉強する気もないし、無知なままでわかることだけ信じたい
      (書いてある言葉)どうでもいい
        (本当の意味)実はすごくこだわっている。類義語:手の届かないところにあるブドウは酸っぱい
      (書いてある言葉)水掛け論
        (本当の意味)証明の放棄
      (書いてある言葉)共鳴する
        (本当の意味)言葉も論理も要りません
      (書いてある言葉)水に流す
        (本当の意味)教訓を学ばない、経験から学ばない
      (書いてある言葉)陰口
        (本当の意味)メールやトラックバックで連絡せず、全世界のどこからでも誰でも見られるblogや2ちゃんねる等に書く
      (書いてある言葉)信者
        (本当の意味)主観的に気に入らない人と同意見の人、あるいは気に入らない主義主張を支持する人全て
      (書いてある言葉)論理(理屈)と感情は別
        (本当の意味)私は理屈は無視し、感情を優先する
      (書いてある言葉)物は言いよう
        (本当の意味)私が気に入るような言い方をしろ
    • 「金づちしか持っていない人は,すべての問題を釘と見なしがちだ(If the only tool you have is a hammer, you tend to see every problem as a nail.)」(エイブラハム・マズロー)という言葉があります。

       

      多くの日本人ユーザは,黙々とReBlogという“釘叩き”に勤しんでいます。対して英語圏では「皆が同じコンテンツをTumblrにポストしまくってるが,どんな意味があるんだ?(What's the point of everyone posting the same content on their Tumblr?)」などと疑問を投げる人も結構います。

       

      彼らは古い認知フレームに縛られているのでは? ニュートラルであり,マニュアル不要,同調や空気読みの圧力もないReBlogという手段があるからこそTumblrは面白いのに! そういう意味で,含意の多義性があるからこそ“使える”ReBlogは,金づちではなく多機能なアーミーナイフだと考えるべきでしょう。

  • May 03, 08


    Photo: Chris Kohler/Wired.com(以下すべて)
    30歳になる前に心臓発作が起きてもかまわない人は、カツとチーズを一緒に注文することができる。私は、そういう食べ方が可能と知って以来、ずっとそうしてきている。

    ニューヨーク発――日本のカレーは、世界で最も完成されたカレーだ。これに異を唱える人がいるとすれば、理由はただ1つ、日本のカレーを食べたことがないからだ。

    インドやタイの、カラフルで舌がヒリヒリするほど辛いカレーならよく食べる、という人はいるだろう。中には、和食レストランで好奇心に駆られ、いつもの照り焼きチキンでなくカレーを注文したことのある人もいるかもしれない。そしてひょっとしたら、そのカレーの上には、日本でおなじみのトンカツまで乗っかっていたかもしれない。

    • そしてホウレンソウのオリジナルに関する記事を、4/2日経春秋で発見。

      この語呂合わせは旧山種証券の社長だった山崎富治氏が20年以上前に考案したとされる。報告は縦、連絡は横、相談は集団のコミュニケーションを指す。本来は風通しの良い組織づくりの大切さを説いたはずの言葉だった。

      ところが、いつの間にやら上司への一方的なコミュニケーションと曲解されておかしなことになっている。

        

      オリジナルの「ホウレンソウ」とは「何を上司に話すべきか」ではなく「誰とコミュニケーションすべきか」を分類したものだったのです。すばらしい。

        

      私個人も横のコミュニケーションを重視します。連絡には本来「つなぐ」という意味があるのですが、企業が成熟して官僚的になると、何かトラブルがあったときに責任がないことを明確にしようとするバイアスがかかる。そうするとどんどん「継ぎ目」が少なくなり、下手をすれば継ぎ目に隙間ができる。「言いましたよね!」と後で言うための保険が「連絡」になってしまう。

        

      なので連絡という言い方はせずに「のりしろ」と呼んでいます。スケジュールを引くときにもタスクの成果物の引渡しには必ずのりしろを持って、後続タスクが動き始めるのを見届けることが先行タスクの終了とする。

      • 後藤貴子の米国ハイテク事情 (via tsupo) (via cxx) (via yellowblog)

         
         

        カエルの目が外界について脳に伝えることは4つだけ、

         
           
        1. コントラストの明瞭な境界(水平線の位置を知る)
        2.  
        3. 照度の急激な変化(これで天敵の接近を知る)
        4.  
        5. 動くもの輪郭
        6.  
        7. 小さく黒っぽい物体の輪郭を曲線(ハエ)と敵・味方・水面の情報のみ
        8.  
         

        カエルの脳は周囲の「リアル」なイメージを組み立てることには興味が無い、あるのは自らが食べ物にならずに食べ物を捕らえることに尽きる。「(カエル)目は、高度に体系化されて解釈のなされた言語によって脳に語るのであり、受容器が検知した光の分布を正確にコピーして伝える訳ではない。」

         

        http://d.hatena.ne.jp/j-m/20070126

         
         

        カエルに比べれば人間はかなり多くのものが見えている。けど、それでも徹底的にフィルタリング&再構成された幻覚を見ていることには変わりない。ものそれ自体がどうのこうのと言い出すと哲学の世界。にしても、「短絡的な善悪判断による紛争」をなくすためとはいえ、どうやっても知覚できないものにどうやって気づこう。熱センサーで紛争はなくならないだろうし。

         

        かすかに関連:脳が生み出す幻覚を簡単に体験できる例:

         
    • 「天才は1%のひらめきと99%の汗」の真意

       

      エジソンは自身を自然界のメッセージを受け取る受信機に例えるほどひらめきを重視していた。「天才は1%のひらめきと99%の汗」 (Genius is one percent inspiration and 99 percent perspiration.) という有名な発言がある。これは「インスピレイション」(ひらめき、霊感)と「パースピレイション」(発汗作用)が脚韻で、「パーセント」(百分率)と「パースピレイション」(発汗作用)が頭韻になった洒落であるが、努力の重要性を物語る発言として人口に膾炙(かいしゃ)している。

       

      しかし本人が後年語ったところによると

           
       
       
      取材した若い記者は私の言葉を聞いて落胆したのか大衆受けを狙ったのか、努力の美徳を強調するニュアンスに勝手に書き換えて発表してしまった 
       
       

      ものである。

       

      実際は「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄である」との発言だった。言い換えれば、「1%のひらめきさえあれば、99%の努力も苦にはならない」ということである。それこそが、例えば竹のフィラメントを発明するのに1万回失敗しても挫折せずに努力し続けるよう彼を支えたものであったと思われている。つまり、エジソンにはひらめきに裏付けられた確信があったのであろう[2]

    • しかし本人が後年語ったところによると

       
       

      「取材した若い記者は私の言葉を聞いて落胆したのか大衆受けを狙ったのか、努力の美徳を強調するニュアンスに勝手に書き換えて発表してしまった」

       
       

      ものである。

       

      実際は「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄である」との発言だった。言い換えれば、「1%のひらめきさえあれば、99%の努力も苦にはならない」ということである。それこそが、例えば竹のフィラメントを発明するのに1万回失敗しても挫折せずに努力し続けるよう彼を支えたものであったと思われている。つまり、エジソンにはひらめきに裏付けられた確信があったのであろう[1]

       

      最高級のひらめきは突然やってきては一瞬のうちに消え去ってしまうものが多い。よいアイディアほど、自分の深層意識のより深いところからやってくるものであり、それが深ければ深いほど、表層意識では意識できないので、いとも簡単に忘れてしまうという。

       

      エジソンは、ペンと紙を常時携帯し、思い浮かんだ瞬間には面倒くさがらずに書き留めていた。ちなみにアインシュタインもメモ魔として有名であった[2]

       

      天才には「アインシュタイン型」と「エジソン型」の2つのタイプがあると言われ、前者はひらめき重視型、後者は努力重視型とされている。ただしこれは、冒頭のエジソンの誤解された発言を元にしたものである。エジソンもまたひらめき重視型の天才であって、両者ともに同じタイプの天才だったのである。

    • 「自分という狭い閉じた世界にだけ通じる常識に、
        相手を取り込んだだけではないか?」
       
       もしそうだとすれば、
       自分の言い分が通れば通るほど、
       世界に通用しなくなっていくのは自分だ。
       
       自分の言い分が通らないことは悲しいけれど、
       もっと悲しいのは、
       自分の言い分が通らないという現実を、
       直視したり、認めたり、受け入れることができなくて、
       自分と現実に幻想を描いて、
       自分より立場の弱い人間に、
       自分の幻想の共演者にしてしまうことだ。
       
       そんなかっこ悪いことに、自分はなりたくない。
       
       目先の狭い世界にとりこまれそうなとき、
       あるいは逆に、自分という、もっと狭い世界に
       相手をとりこんでしまいそうなとき、
       
       ぐっと目を外にひらいて、
       たいそうな言い方だけど、
       自分を「世界に通用する人間に育てるぞ!」くらいの
       勢いで、勇気をもって私は問いたい。
       
       もしここに、全然関係のない観客100人がいたとして、
       自分たちの話を聞いていたとしたら、
       自分の話はおもしろいのだろうか?
       自分の言い分は通るのだろうか?
       
       崖っぷちにいるのはどっちだろう?
       
       世界に通用しなくなっていっているのは、
       こっちか? そっちか?
    • かなりよがった、私の頭の中の理解

       

      f:id:takeim:20080523021557j:image

       

       

      上と下は同じことでも、ユーザネットのとらえ方によって呼び方が変わってくるんじゃないかなーという気がする。 とらえ方のレイヤーがあがるほど、雲になっていく領域が大きくなると言うことか。 全部が雲になるのはL8ぐらいかなー。

       

      ネットやさんは、インターネット区間も雲にしないのかもしれないな。

    • 押し入れの中に、見ず知らずの女が住み着いていた!? 福岡県警粕屋署は28日、同県志免町の男性(57)宅に忍び込んだとして、住居侵入の現行犯として住所不定、無職堀川タツ子容疑者(58)を逮捕した。押し入れ内の天袋にマットレスを持ち込み、生活までしていたという。

        

       同署によると、男性は1人暮らし。以前から家の食べ物がたびたびなくなることを不審に思い、人影に反応すると画像が携帯電話にメールで送られる仕組みの警報装置と監視カメラを室内に設置。この日午後2時すぎに外出すると、十数分後に不審者が写った画像を受信した。

       
        知らない女、天袋に住み着く!? 住居侵入容疑で逮捕 粕屋署(西日本新聞) - Yahoo!ニュース
    • いま、問題になっているのは、炭鉱住宅=炭住などを、市街戦を想定した自衛隊の訓練に使うという構想です。
       誘致が実現すれば、国からの交付金のほか、新たな住宅の整備も期待できるといいます。
       さらには、カジノや、高レベル放射性廃棄物の最終処分場など…、夕張の商工会議所は、あわせて6つの誘致案を、検討しています。
       財政破たんから1年で、夕張市の人口はおよそ600人、減って、予想を上回るペースで、減少しています。
       このままでは、マチが消滅する…。
       夕張は、いま、いわゆる「迷惑施設」の誘致で揺れています。
       

       

       Hana*テレビで放送 2008年5月29日(木)19:00更新

    • <p>括弧書きは藩府県庁所在地の現所属市町村</p><br/><ul><br/><li><a rel="nofollow" title="1868年" href="/wiki/1868%E5%B9%B4">1868年</a><a rel="nofollow" title="5月11日" href="/wiki/5%E6%9C%8811%E6%97%A5">5月11日</a>(慶応4年=明治元年<a rel="nofollow" title="4月19日 (旧暦)" href="/wiki/4%E6%9C%8819%E6%97%A5_%28%E6%97%A7%E6%9A%A6%29">旧暦4月19日</a>):<a rel="nofollow" title="遠国奉行" href="/wiki/%E9%81%A0%E5%9B%BD%E5%A5%89%E8%A1%8C#.E6.96.B0.E6.BD.9F.E5.A5.89.E8.A1.8C">新潟奉行所</a>に代えて<a rel="nofollow" title="越後府" href="/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E5%BA%9C#.E6.96.B0.E6.BD.9F.E8.A3.81.E5.88.A4.E6.89.80">新潟裁判所</a>を設置。</li><br/><li>1868年<a rel="nofollow" title="5月16日" href="/wiki/5%E6%9C%8816%E6%97%A5">5月16日</a>(慶応4年<a rel="nofollow" title="4月24日 (旧暦)" href="/wiki/4%E6%9C%8824%E6%97%A5_%28%E6%97%A7%E6%9A%A6%29">旧暦4月24日</a>):<a rel="nofollow" title="遠国奉行" href="/wiki/%E9%81%A0%E5%9B%BD%E5%A5%89%E8%A1%8C#.E4.BD.90.E6.B8.A1.E5.A5.89.E8.A1.8C">佐渡奉行所</a>に代えて<a rel="nofollow" title="佐渡裁判所 (未編集)" href="/w/index.php?title=%E4%BD%90%E6%B8%A1%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80&amp;action=edit&amp;redlink=1" class="new">佐渡裁判所</a>を設置。</li><br/><li>1868年<a rel="nofollow" title="7月18日" href="/wiki/7%E6%9C%8818%E6%97%A5">7月18日</a>(慶応4年<a rel="nofollow" title="5月29日 (旧暦)" href="/wiki/5%E6%9C%8829%E6%97%A5_%28%E6%97%A7%E6%9A%A6%29">旧暦5月29日</a>:<a rel="nofollow" title="越後国" href="/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E5%9B%BD">越後国</a>に<a rel="nofollow" title="越後府" href="/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E5%BA%9C">越後府</a>(第1次、<a rel="nofollow" title="上越市" href="/wiki/%E4%B8%8A%E8%B6%8A%E5%B8%82">上越市</a><a rel="nofollow" title="高田市" href="/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%B8%82">高田</a> ⇒ <a rel="nofollow" title="柏崎市" href="/wiki/%E6%9F%8F%E5%B4%8E%E5%B8%82">柏崎市</a>)を設置。</li><br/><li>1868年<a rel="nofollow" title="9月13日" href="/wiki/9%E6%9C%8813%E6%97%A5">9月13日</a>(慶応4年<a rel="nofollow" title="7月27日 (旧暦)" href="/wiki/7%E6%9C%8827%E6%97%A5_%28%E6%97%A7%E6%9A%A6%29">旧暦7月27日</a>):越後府から<a rel="nofollow" title="柏崎県" 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href="/wiki/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E5%B8%82">新潟市</a>)に改称。</li><br/><li>1868年<a rel="nofollow" title="12月18日" href="/wiki/12%E6%9C%8818%E6%97%A5">12月18日</a>(明治元年<a rel="nofollow" title="11月5日 (旧暦)" href="/wiki/11%E6%9C%885%E6%97%A5_%28%E6%97%A7%E6%9A%A6%29">旧暦11月5日</a>):柏崎県を新潟府に合併(布達のみで実行されず)、佐渡県を新潟府の当分管轄とする(事実上の編入)。</li><br/><li><a rel="nofollow" title="1869年" href="/wiki/1869%E5%B9%B4">1869年</a><a rel="nofollow" title="3月20日" href="/wiki/3%E6%9C%8820%E6%97%A5">3月20日</a>(明治2年<a rel="nofollow" title="2月8日 (旧暦)" href="/wiki/2%E6%9C%888%E6%97%A5_%28%E6%97%A7%E6%9A%A6%29">旧暦2月8日</a>):新潟府から<a rel="nofollow" title="越後府" href="/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E5%BA%9C">越後府</a>(第2次、<a rel="nofollow" title="阿賀野市" href="/wiki/%E9%98%BF%E8%B3%80%E9%87%8E%E5%B8%82">阿賀野市</a>旧<a rel="nofollow" title="水原町" href="/wiki/%E6%B0%B4%E5%8E%9F%E7%94%BA">水原町</a>)を分離再置。</li><br/><li>1869年<a rel="nofollow" title="4月3日" href="/wiki/4%E6%9C%883%E6%97%A5">4月3日</a>(明治2年<a rel="nofollow" title="2月22日 (旧暦)" href="/wiki/2%E6%9C%8822%E6%97%A5_%28%E6%97%A7%E6%9A%A6%29">旧暦2月22日</a>):新潟府を新潟県(第1次)と改称。柏崎県の廃止と越後府への合併を再度布達。佐渡県は越後府の当分管轄とする。</li><br/><li>1869年<a rel="nofollow" title="6月13日" href="/wiki/6%E6%9C%8813%E6%97%A5">6月13日</a>(明治2年<a rel="nofollow" title="5月4日 (旧暦)" href="/wiki/5%E6%9C%884%E6%97%A5_%28%E6%97%A7%E6%9A%A6%29">旧暦5月4日</a>):<a rel="nofollow" title="岩代国" href="/wiki/%E5%B2%A9%E4%BB%A3%E5%9B%BD">岩代国</a>に<a rel="nofollow" title="若松県 (未編集)" href="/w/index.php?title=%E8%8B%A5%E6%9D%BE%E7%9C%8C&amp;action=edit&amp;redlink=1" class="new">若松県</a>(<a rel="nofollow" title="会津若松市" href="/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%8B%A5%E6%9D%BE%E5%B8%82">会津若松市</a>)を設置、<a rel="nofollow" title="蒲原郡" href="/wiki/%E8%92%B2%E5%8E%9F%E9%83%A1">蒲原郡</a>のうち旧<a rel="nofollow" title="会津藩" href="/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%97%A9">会津藩</a>領(現<a rel="nofollow" title="東蒲原郡" href="/wiki/%E6%9D%B1%E8%92%B2%E5%8E%9F%E9%83%A1">東蒲原郡</a>)を管轄。</li><br/><li>1869年<a rel="nofollow" title="7月25日" href="/wiki/7%E6%9C%8825%E6%97%A5">7月25日</a>(明治2年<a rel="nofollow" title="6月17日 (旧暦)" href="/wiki/6%E6%9C%8817%E6%97%A5_%28%E6%97%A7%E6%9A%A6%29">旧暦6月17日</a>):<a rel="nofollow" title="版籍奉還" href="/wiki/%E7%89%88%E7%B1%8D%E5%A5%89%E9%82%84">版籍奉還</a> -<a rel="nofollow" title="8月1日" href="/wiki/8%E6%9C%881%E6%97%A5">8月1日</a>( <a rel="nofollow" title="6月24日 (旧暦)" href="/wiki/6%E6%9C%8824%E6%97%A5_%28%E6%97%A7%E6%9A%A6%29">旧暦6月24日</a>)までに越後国内では以下の10藩の藩主(<a rel="nofollow" title="諸侯" href="/wiki/%E8%AB%B8%E4%BE%AF">諸侯</a>)が<a rel="nofollow" title="知藩事" href="/wiki/%E7%9F%A5%E8%97%A9%E4%BA%8B">知藩事</a>に任命された。</li><br/></ul><br/><dl><br/><dd><br/><dl><br/><dd><a rel="nofollow" title="村上藩" href="/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E8%97%A9">村上藩</a>(<a rel="nofollow" title="村上市" href="/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%B8%82">村上市</a>)、<a rel="nofollow" title="黒川藩" href="/wiki/%E9%BB%92%E5%B7%9D%E8%97%A9">黒川藩</a>(<a rel="nofollow" title="胎内市" href="/wiki/%E8%83%8E%E5%86%85%E5%B8%82">胎内市</a>旧<a rel="nofollow" title="黒川村 (新潟県北蒲原郡)" href="/wiki/%E9%BB%92%E5%B7%9D%E6%9D%91_%28%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E5%8C%97%E8%92%B2%E5%8E%9F%E9%83%A1%29">黒川村</a>)、<a rel="nofollow" title="三日市藩" href="/wiki/%E4%B8%89%E6%97%A5%E5%B8%82%E8%97%A9">三日市藩</a>(<a rel="nofollow" title="新発田市" href="/wiki/%E6%96%B0%E7%99%BA%E7%94%B0%E5%B8%82">新発田市</a>三日市)、<a rel="nofollow" title="新発田藩" href="/wiki/%E6%96%B0%E7%99%BA%E7%94%B0%E8%97%A9">新発田藩</a>(<a rel="nofollow" title="新発田市" href="/wiki/%E6%96%B0%E7%99%BA%E7%94%B0%E5%B8%82">新発田市</a>)、<a rel="nofollow" title="村松藩" href="/wiki/%E6%9D%91%E6%9D%BE%E8%97%A9">村松藩</a>(<a rel="nofollow" title="五泉市" href="/wiki/%E4%BA%94%E6%B3%89%E5%B8%82">五泉市</a>旧<a rel="nofollow" title="村松町" href="/wiki/%E6%9D%91%E6%9D%BE%E7%94%BA">村松町</a>)、<a rel="nofollow" title="越後長岡藩" href="/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E9%95%B7%E5%B2%A1%E8%97%A9#.E4.B8.89.E6.A0.B9.E5.B1.B1.E8.97.A9">三根山藩</a>(<a rel="nofollow" title="新潟市" href="/wiki/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E5%B8%82">新潟市</a>旧<a rel="nofollow" title="巻町" href="/wiki/%E5%B7%BB%E7%94%BA">巻町</a>)、<a rel="nofollow" title="越後長岡藩" href="/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E9%95%B7%E5%B2%A1%E8%97%A9">長岡藩</a>(長岡市)、<a rel="nofollow" title="与板藩" href="/wiki/%E4%B8%8E%E6%9D%BF%E8%97%A9">与板藩</a>(<a rel="nofollow" title="長岡市" href="/wiki/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E5%B8%82">長岡市</a>旧<a rel="nofollow" title="与板町" href="/wiki/%E4%B8%8E%E6%9D%BF%E7%94%BA">与板町</a>)、<a rel="nofollow" title="椎谷藩" href="/wiki/%E6%A4%8E%E8%B0%B7%E8%97%A9">椎谷藩</a>(柏崎市椎谷)、<a rel="nofollow" title="高田藩" href="/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E8%97%A9">高田藩</a>(上越市高田)、<a rel="nofollow" title="清崎藩" href="/wiki/%E6%B8%85%E5%B4%8E%E8%97%A9" class="mw-redirect">清崎藩</a>(<a rel="nofollow" title="糸魚川市" href="/wiki/%E7%B3%B8%E9%AD%9A%E5%B7%9D%E5%B8%82">糸魚川市</a>)</dd><br/></dl><br/></dd><br/></dl><br/><ul><br/><li>1869年<a rel="nofollow" title="8月27日" href="/wiki/8%E6%9C%8827%E6%97%A5">8月27日</a>(明治2年<a rel="nofollow" title="7月20日 (旧暦)" href="/wiki/7%E6%9C%8820%E6%97%A5_%28%E6%97%A7%E6%9A%A6%29">旧暦7月20日</a>):越後府による当分管轄を解除し、佐渡県(佐渡市旧<a rel="nofollow" title="相川町" href="/wiki/%E7%9B%B8%E5%B7%9D%E7%94%BA">相川町</a>)を再置。</li><br/><li>1869年<a rel="nofollow" title="9月3日" href="/wiki/9%E6%9C%883%E6%97%A5">9月3日</a>(明治2年<a rel="nofollow" title="7月27日 (旧暦)" href="/wiki/7%E6%9C%8827%E6%97%A5_%28%E6%97%A7%E6%9A%A6%29">旧暦7月27日</a>):越後府と新潟県を合併し、<a rel="nofollow" title="水原県" href="/wiki/%E6%B0%B4%E5%8E%9F%E7%9C%8C">水原県</a>(阿賀野市旧水原町)を設置。</li><br/><li>1869年<a rel="nofollow" title="9月30日" href="/wiki/9%E6%9C%8830%E6%97%A5">9月30日</a>(明治2年<a rel="nofollow" title="8月25日 (旧暦)" href="/wiki/8%E6%9C%8825%E6%97%A5_%28%E6%97%A7%E6%9A%A6%29">旧暦8月25日</a>):水原県から<a rel="nofollow" title="柏崎県" href="/wiki/%E6%9F%8F%E5%B4%8E%E7%9C%8C">柏崎県</a>(第2次、柏崎市)を分離。</li><br/><li><a rel="nofollow" title="1870年" href="/wiki/1870%E5%B9%B4">1870年</a><a rel="nofollow" title="4月7日" href="/wiki/4%E6%9C%887%E6%97%A5">4月7日</a>(明治3年<a rel="nofollow" title="3月7日 (旧暦)" href="/wiki/3%E6%9C%887%E6%97%A5_%28%E6%97%A7%E6%9A%A6%29">旧暦3月7日</a>):水原県を廃し、新潟県(第2次、新潟市)を設置。</li><br/><li>1870年<a rel="nofollow" title="11月15日" href="/wiki/11%E6%9C%8815%E6%97%A5">11月15日</a>(明治3年<a rel="nofollow" title="10月22日 (旧暦)" href="/wiki/10%E6%9C%8822%E6%97%A5_%28%E6%97%A7%E6%9A%A6%29">旧暦10月22日</a>):長岡藩を廃し、柏崎県に編入。</li><br/><li>1870年<a rel="nofollow" title="11月22日" href="/wiki/11%E6%9C%8822%E6%97%A5">11月22日</a>(明治3年<a rel="nofollow" title="10月29日 (旧暦)" href="/wiki/10%E6%9C%8829%E6%97%A5_%28%E6%97%A7%E6%9A%A6%29">旧暦10月29日</a>):三根山藩を峰岡藩(新潟市旧巻町)に改称。</li><br/><li><a rel="nofollow" title="1871年" href="/wiki/1871%E5%B9%B4">1871年</a><a rel="nofollow" title="8月29日" href="/wiki/8%E6%9C%8829%E6%97%A5">8月29日</a>(明治4年<a rel="nofollow" title="7月14日 (旧暦)" href="/wiki/7%E6%9C%8814%E6%97%A5_%28%E6%97%A7%E6%9A%A6%29">旧暦7月14日</a>):<a rel="nofollow" title="廃藩置県" href="/wiki/%E5%BB%83%E8%97%A9%E7%BD%AE%E7%9C%8C">廃藩置県</a> - 旧藩から県に替わったものも含めて現新潟県域には以下の各県が設置された。</li><br/></ul><br/><dl><br/><dd><br/><dl><br/><dd>村上県、三日市県、黒川県、新発田県、村松県、峰岡県、新潟県、柏崎県、与板県、椎谷県、高田県、清崎県、佐渡県<br/><ul><br/><li>蒲原郡のうち旧会津藩領の区域は引き続き若松県の一部</li><br/></ul><br/></dd><br/></dl><br/></dd><br/></dl><br/><ul><br/><li>1871年<a rel="nofollow" title="12月31日" href="/wiki/12%E6%9C%8831%E6%97%A5">12月31日</a>(明治4年<a rel="nofollow" title="11月20日 (旧暦)" href="/wiki/11%E6%9C%8820%E6%97%A5_%28%E6%97%A7%E6%9A%A6%29">旧暦11月20日</a>):府県統合により以下の3県を設置。<br/><ul><br/><li><b>新潟県</b>(第3次、新潟市):下越2郡(蒲原郡・岩船郡) - 村上県、三日市県、黒川県、新発田県、村松県、峰岡県、新潟県を統合</li><br/><li><b>柏崎県</b>(第3次、柏崎市):上・中越5郡(頸城郡・刈羽郡・魚沼郡・三島郡・古志郡) - 与板県、椎谷県、高田県、清崎県、柏崎県を統合</li><br/><li><b><a rel="nofollow" title="相川県" href="/wiki/%E7%9B%B8%E5%B7%9D%E7%9C%8C">相川県</a></b>(佐渡市旧相川町):佐渡県を改称</li><br/></ul><br/></li><br/><li><a rel="nofollow" title="1873年" href="/wiki/1873%E5%B9%B4">1873年</a>(明治6年)<a rel="nofollow" title="6月10日" href="/wiki/6%E6%9C%8810%E6%97%A5">6月10日</a>:柏崎県を廃し、新潟県に合併。</li><br/><li><a rel="nofollow" title="1876年" href="/wiki/1876%E5%B9%B4">1876年</a>(明治9年)<a rel="nofollow" title="4月18日" href="/wiki/4%E6%9C%8818%E6%97%A5">4月18日</a>:相川県を廃し、新潟県に合併。<br/><ul><br/><li>(1876年(明治9年)<a rel="nofollow" title="8月21日" href="/wiki/8%E6%9C%8821%E6%97%A5">8月21日</a>:若松県を廃し、<a rel="nofollow" title="磐前県 (未編集)" href="/w/index.php?title=%E7%A3%90%E5%89%8D%E7%9C%8C&amp;action=edit&amp;redlink=1" class="new">磐前県</a>とともに<a rel="nofollow" title="福島県" href="/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C">福島県</a>に合併。)</li><br/></ul><br/></li><br/><li><a rel="nofollow" title="1886年" href="/wiki/1886%E5%B9%B4">1886年</a>(明治19年)<a rel="nofollow" title="5月25日" href="/wiki/5%E6%9C%8825%E6%97%A5">5月25日</a>:福島県から東蒲原郡を新潟県へ移管。</li></ul>
    • 土屋  実は、
       ぼくら地上波のテレビをやっている人たちは、
       視聴者を、信じていないんですよ。

       見ている人のことを、かなり
       ものがわからない人だと想定して、
       その人たちにどう見せるかと工夫しているんです。
       
       ものすごく悪い言い方をすると、もう、
       「馬鹿にどう見せるか」と、みんな絶対に
       クチには出さないけれども、どこかのところでは
       みんながそう思っているようなフシがありますね。   糸井  あれだけの大きさのツールを持てば、
       誰でもそうなりますよね。   土屋  確かに、何百万人、何千万人と見てくださる中には、
       もちろん、そういう人たちも、いますよ。
       その人たちも入れないと数にならないから、
       「その人たちまで含めて全員をダマすためには……」
       と、自分たちの持っている視聴者像を、
       どんどん、ものすごく友達にしたくないところに
       持っていってしまっている、
      というか。   糸井  そうなっちゃいますよね。   土屋  そういう風になる仕組みだとは思うのですが、
       そこが、とても怖いんです。
       だから、視聴者に直に触れることが、怖い。   糸井  直に触れることはぼくも怖いんですけど、
       怖いけど、球を打ち続けるんですよ。
       そうしていたら、わかったことがあったんです。
       
       わけのわからないことを言う人がいたとしても、
       「何にもわからない人がいる」のではなくて、
       「ある人間のそういう部分が出ていて、
        それと、たまたま接している」
       ということが、わかったんですよ。
         土屋  あぁ、ほんとは、そうなんでしょうねぇ。   糸井  うん、それはそうなんだと思う。
    • 死に方の表記意味・説明圧死物に押しつぶされて死ぬこと。縊死首をくくって死ぬこと。煙死煙や有毒ガスによって死ぬこと。横死不慮の災難で死ぬこと。不慮の死。非業の死。怪死原因のわからないおかしな死に方をすること。客死旅先で死ぬこと。異国で死ぬこと。餓死飢えのために死ぬこと。愧死深く恥じて死ぬこと。急死急に死ぬこと。窮死困窮のうちに死ぬこと。狂死気が狂って死ぬこと。苦死苦労や苦悩のうちに死ぬこと。刑死刑に処せられて死ぬこと。経死首をくくって死ぬこと。獄死監獄の中で死ぬこと。惨死むごたらしくみじめな死に方をすること。慚死深く恥じて死ぬこと。愁死うれい悲しんで死ぬこと。従死故人のあとを追って死ぬこと。殉死死んだ主君のあとを追い、臣下が自殺すること。焼死焼け死ぬこと。震死雷に打たれて死ぬこと。水死水におぼれて死ぬこと。衰死おとろえ弱って死ぬこと。戦死兵士が戦闘によって死ぬこと。即死事故や災難にあい、すぐその場で死ぬこと。窒死息がつまって死ぬこと。忠死忠義を尽くして死ぬこと。墜死高い所からおちて死ぬこと。溺死水におぼれて死ぬこと。凍死寒さでこごえ死ぬこと。毒死毒薬によって死ぬこと。徒死むだに死ぬこと。頓死急にあっけなく死ぬこと。敗死戦いに負けて死ぬこと。爆死爆撃・爆発で死ぬこと。病死病気で死ぬこと。刎死みずから首をはねて死ぬこと。憤死憤慨のあまり死ぬこと。斃死行き倒れて死ぬこと。野垂れ死に。変死普通でない状態での死。暴死突然の事件などで死ぬこと。悶死苦しみもだえながら死ぬこと。扼死扼殺による死。夭死若くして死ぬこと。轢死車輪にひかれて死ぬこと。老死年をとって自然に死ぬこと。牢死牢屋に入れられ、そこで死ぬこと。浪死いたずらに死ぬこと。
    •   17歳の頃にカナダの駅で夜間電信係として働いていた時、何もなければ一晩中「一時間おきに勤務に就いている事を示す信号を送る」という退屈な仕事に飽きてしまい、時計を使って電信機が自動で電信を送る機械を「発明」した。 電信を機械に任せて自分は寝ていたところ、まったく誤差なく正確に一時間おきに電信が届くことを不思議に思って様子を見に来た上司に見咎められ「お前が寝てたら定時に連絡する意味がないだろう」と怒られた。これが最初の「発明」だった。 
    • 上地氏はブログ開始後1年強で累計総アクセス数10億PV突破を見込む人気ブロガーだ。2007年6月21日からサイバーエージェントのブログサービス「Ameba」でブログを開始。開始当初から徐々にアクセス数を増やし、現在の1日平均アクセス数は500~600万PVに上るという。

        
      上地雄輔 上地雄輔氏のブログ「神児遊助」
    • それは、勉強を怠ることだ。勉強とは何か?それは、仕事に直結しない知識を得るための作業だ。知識とは何か?アート作品の鑑賞、アーティストを知ること、そしてそれを楽しむと。または、デザイン理論を学んだり、スタイルを学んだりもできる。さらには、デザインの歴史も面白いし、デザインから離れて印刷などの雑学、建築やプロダクトデザイン、音楽、演劇、映画へと勉強心は発展する。
    • 英語圏では、大学や図書館や博物館や学者コミュニティなど、知の最高峰に位置する人々や組織が「人類の公共財産たる知を広く誰にも利用可能にすることは善なのだ」という「パブリックな意識」を色濃く持ち、そこにネットの真の可能性を見出しているように思えるのだ。その感覚が日本語圏のネット空間には薄い。
       「人類の過去の叡智」たる図書館の蔵書をスキャナーで読み取って理解し、自動的に索引を生成し検索可能にする「グーグル・ブックサーチ」プロジェクトに賛同して協力するのは、英語圏の大学図書館がほとんどだ。科学の世界でも、オープンアクセスを標榜するPLoS(Public Library of Science http://www.plos.org/)という学術論文サイトが、「サイエンス」誌や「ネイチャー」誌といったこれまでの権威への対抗軸として急成長している。
  • Jun 07, 08

    実は、この帝国ホテルこそ、柿の種とピーナツを組み合わせた、いわゆる「柿ピー」を日本で初めて考案し、提供したという伝説を持っているのだ。

     広報課副支配人の宮崎真理さんによると、現在の本館が完成したのは70(昭和45)年。だが、「柿ピー」は、フランク・ロイド・ライトが設計した旧帝国ホテル時代からバーで提供されていた。

     開業119年を誇る同ホテルは、外国の要人を泊める施設として国策で建てられた。西洋にならい、酒のつまみとしてサービスナッツを日本で初めて出したのも同ホテルだ。「その際、なにか日本らしさを出そうとして、柿の種が選ばれたのでは」

     このバーでは、新潟県内産の柿の種と千葉産のピーナツを7対3の割合で配合。外国人には「ジャパニーズライススナック」と紹介している。

     ビールはもちろん、ジントニックやマティーニなどのカクテルにも驚くほど合う。

     「ちょっぴり辛いので最初は戸惑う。でもすぐにクセになる。外国のお客様は本当によく召し上がります」

    •  ■金型つぶれて柿型に 

       

       

       

       「柿の種」を最初に作ったのは、長岡市摂田屋町の「浪花屋製菓」だ。創業は19(大正8)年。やがて薄く切ったもちを何枚かに重ね、小判型の金型で切り抜いてあられを作り始めた。が、その金型をうっかり踏みつぶしてしまい、元に直らないのでそのまま使用したところ、ゆがんだ形のあられができた。得意先から「柿の種に似ている」と言われ、ヒントを得て、23(大正12)年に「柿の種」が誕生した。同社製品を「元祖 柿の種」と呼ぶゆえんだ。創業者は米菓振興のため進んで製法を伝えたため、多くの業者が追随したという。ピーナツ入り柿の種を県内で初めて商品化したのは亀田製菓で、66(昭和41)年に発売された。(三沢敦) 

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