空幕広報室長時代に、JAL機が御巣鷹山に墜落して520人もの犠牲者を出す大惨事があったが、その時航空自衛隊はJALや関係機関から何の要請もない時点から自主的に捜索救難活動を開始した。しかし、4人の生存者が発見されたとたん、「救助が遅い、自衛隊は何をしていた!」「役立たず!」と一部のメディアから非難された。冗談じゃない。
事実を知らせるべき部署にいた私は、彼らに説得をしたが効果はなかったので、たまたま取材を受けた「月曜評論」という小紙に反論を掲載した。
これがやがて大きな話題になり、自衛隊を評価する意見が殺到しだしたのだが、批判された一部メディア関係者には面白くなかったらしい。そんなことがあった後、私は急に予想だにしなかった三沢に転勤させられた。
実はもっと違うヒコウキとは関係ない場所に飛ばされる?予定だったらしいのだが、時の某司令官の采配でパイロットとしてかろうじて飛行部隊に途中下車ならぬ不時着出来たのであった。
その時東京の雑誌関係の友人から電話があり、是非会いたいという方がいるので時間をとってほしいと頼まれた。そしてお会いしたのが川内先生である。
この方面に暗い私には、せいぜい「月光仮面の作者」という記憶しかなかったのだが、私の部屋で向かい合った先生は真っ先に「A新聞記者と孤立無援の戦いをした理由」について質問した。私は「広報室長という役目上、でたらめな記事には当然反論すべきであり、取るものもとりあえず現場に駆けつけて、想像を絶する苦労をした多くの隊員達の苦労に報いるための私に取れる唯一の仕事だったからだ」と答えると、じっと私の目を見つめていた先生の目に、ほころび?が出来て「気に入ったから私の本を贈呈したい」と言って「田中角栄は国賊か」という著者に署名して下さったのである。
その後三沢に帰郷されるたびに電話があり、スクランブル待機所を案内したことがあったが、勤務中の若いパイロットたちや整備員達の姿に涙ぐまれ、「司令、まだこんなに綺麗な目をした青年達が、この日本に残っているとは思わなかった。実に嬉しい」と手を握られた。先生は感激家であった。古いよき時代の塊だったという印象を私は受けたものである。